楽しむことって大切

どんなことでも「楽しむ」ということは、やっぱり大切だと思う。
「何でも楽しみながら出来る」
それだけで強くなれるし、幸せにもなれる。


「嫌なものは嫌だ!」
それも凄く大切だと思う。自分に正直でありたい。
そんな時は「嫌々やることを楽しむ」という手もある。

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嫌々やることを楽しむ例
「嫌々やるってこういう気持ちやねんなぁ。。。」
嫌な気分やけど、普段考えないようなことを考えられるし
あの人もあの時は、こういう気持ちだったんだろうなぁ。
1つ、人の気持ちが分かるレベルが上がったかも。
なるほど、嫌なことをやるのもたまには良いな。

死について思うこと(2009年)

小学生や中学生の時
自分が死んだ時のことばかりを考えたりしていた。
死んだら、自分で何か行動することも、見ることもできないのに。


生き方は、自分の意志で決めることができるが
死に方は、自分でコントロールするのは非常に難しい。


コントロールできないと言っても過言ではない「死に方」と
自分の意志で決めて進むことができる「生き方」


一生懸命生きよう。

自分は絶対に何かを「分かる」ことはできない。

自分がいつの間にか天狗になっている時とは
何かを分かった気になっていることだと思う。


・いつも通りやればいいから
・そんなの分かってるから
・ここは手抜きしても問題ないや
・だいじょうぶ、だいじょうぶ
・まぁ、これでいいだろう


それでは良くない。
だから、いつも自分に言い聞かせている。


自分は絶対に何かを「分かる」ことはできない。と


それでも、いつの間にか同じ失敗をする。
まだまだ自分が甘い証拠だと思う。

願わくば、我に七難八苦を与えたまえ

戦国時代の英雄に山中鹿之助という方がいた。


その方は、目的を完遂する強さを得るため
苦しいことに打ち勝ち続ける必要がある!という思いから


三日月に「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったそうです。


苦しいことは、できるだけ避けたいのが世の常ですが
「七難八苦を与えたまえ」と祈った執念や心境は
とても考えさせられます。

責任重大ということは、有難い事

どんなことでも、責任が重いということは
それだけ本人の価値が高いということ。


ほとんどが有難い事。


※責任だけをなすり付けられる等は別

左手の怪我に教えてもらった大切なこと

高校生の時に事故をして、手の平を餃子が1つ入るぐらい切って
動脈と神経を両方とも切断してしまった。
いくら縛って押さえても、脈拍と同時に血が噴き出て止まらない。


医学が発達していない時代なら、死んでしまっていたと思う。


事故から何年も時間が経っていますが
今でも、自分が間違った方向へ調子に乗りそうになった時


左手の怪我が


「あの時に死んでいたかもしれない人間が、浮かれていていいのか?」
「生かされている、ということを忘れたのか?」と教えてくれる。